日報ぶりゅり

普通の人間たちが書く日報?。~日報なのに不定期更新。大過疎状態ぴえんの森遭難中まぢぴえん~

キモオタで何が悪い

長いテスト期間が漸く終了した。なんとか身に纏っていた自己肯定の残滓が日に日に剥がれ落ちていって、最終日には最早何一つ残されていなかった。

私は自己肯定の持つ力というものを過信している節がある。他人なんて所詮自分自身とは関係のない存在で、そんなもののもたらす評価を自己の拠り所にするのは危険だ。自分の努力は本質的に誰にも分からない、それならば自分こそが自分を評価せずして如何に人格を保っていられようか。


趣味、とまでは言わないが、これまで様々なことに挑戦してきた。大体論理は同じである。Youtubeとかいう情報過多過多コンテンツが、色々な分野のトップレベルを私に見せてくれる。私にだってできるはずだ、挑戦してきたジャンルの数は数えようと思ったことさえない。

当然のことながら世界には一位よりもそうでない人の方が多い。評価指標の個数を無限大に増やしたとてそれは変わらないだろう。結局のところ、私は未だどの分野でも頂点を極めることはできなかった。どの分野でも著名になることは未だ叶っていない。

いくつかのゲームを精力的にプレイしているが、本質としての目的が周囲へのマウンティングだと気づいたときには愕然とした。自分の中にある薄暗い感情が露わになったような気がした。認めたくはないものである。

それでも私は自己表現の手段を模索し続けなければならない。これはどんな人間もそうである。人生に当てなど無いことなんて誰だって知っているのにどこかしらへ向けて歩みを止めることが許されないのは各国が未だに成長率に固執していることに似ている。端的に考えて他に為すことがないのだ。


閑話休題、タイトルにも触れるべきだろう。

自分自身をこうして蔑称のような名詞で形容することには免罪符的な意味がある。一般的とされる人類集団から少しだけ外れた存在であることを自ら表明しているのだ。これはある意味で後ろ向きなものではなく、寧ろ逃避の意味が強い姿勢である。ネタ切れした自己表現にそこらへんで拾った適当な言葉を再利用しているだけなのだ。


消極的自殺回避を幾度となく繰り返してきた。死後どうなるかがはっきりしていればここまで自殺を思い留まることはないだろう。現状の不満と死後の境遇を比較して、多少なりマシな方を選んで、それで終わりである。だのにそれをしないのは、一重に未知への不安があるからに過ぎない。

数週間先にタスクを予定して、なんとかそれを支えに生き延びるということを繰り返している。来週の歯医者の予約が、再来月発売される新刊が、北風に揉まれる枯木の葉のように、私の命をなんとか今日も支えている。

肉を食べて美味くて、漸く自分の生を実感した。あのとき辞めないで良かった。白米を烏龍茶で流し込んでいるときにちょっとだけ泣いてしまったが、そのことは秘密にしておこうと思う。

 
私が私でいられる為に何ができるだろうか。否、何をすればいいだろうか。もう少しだけやりたいことは残っているし、それまではなんとか生き延びてみせる。


M

 

f:id:Bu-ryuri:20201212221825j:plain