虚飾に塗れた現世。
4月1日。エイプリルフールと呼ばれる日には、多くの嘘が飛び交う。しかし、振り返ってみるとエイプリルフールが特別なわけではない。常日頃から社会には嘘が飛び交っているといえる。人を陥れるためであったり、思い通りに他人を動かすためであったり。相手にいい思いをさせるためのものであったり。いい嘘、悪い嘘。全て等しく嘘である。そこに差はない。
普段は陰で蠢いている嘘を、一時的に表面へと連れ出す。その行為に何の意味があるのだろう。楽しむ人がいる反面、楽しむために吐き出された嘘によって傷付く人がいるのだ。意図せぬ悪意は、時として何にも勝る凶器となり得る。下剋上の対義語は上剋下であるのだろうか。
挙げ句の果てには、無邪気に嘘を吐く人に向かって「嘘を吐いてもいいのは午前中だけ」だの「絶対叶わない嘘じゃないとダメ」だのと横槍を入れる人間すらも現れてしまう。どういう考えで行動しているのかわからない。声優がリプライでやりとりしている中、会話に混ざろうとする声豚のようなものだ。滑稽としか言いようがない。
嘘を吐くという行為を正当化すること、ひいてはそれをイベントとして世間に広めること。そのことにどういったメリットがあるのか、私は知らない。だからこそこういう記事を書けているともいえる。
私は立派な人間ではない。約束や時間は守らないし、早寝早起きなんて思想とは別の次元で生きている。嘘だって日常的に吐く。この記事に書いてあることだってほとんど思ってもないことだ。起承転結なんてなく、適当に言葉を並べているだけ。
しかし、だらしない嘘吐きな人間というのが、本当の私である。そこに嘘はない。
嘘偽りのない、嘘に塗れた私。それでいいのだ。
どれだけ他人に嘘を吐いても、自分にだけは正直に。本当の自分を見失わなければいい。
エイプリルフールに乗じて自ら欺瞞に包まれる人たちに、それだけ、伝えたい。
エイプリルフールの起源を辿ってみても、そこに明確な答えはないらしい。エイプリルフールの存在こそ、嘘であるかもしれない。はてさて、真も偽もあったものではない。