人の気持ちを考えるということ。
トマス・ネーゲル氏が提起した「便器のクモ」という話がある。
ある少年が汚い公衆便所で用を足していると、1匹のクモを見つけた。
クモを外に出してやろうとしたところ、誤って殺してしまった。
少年からすると、汚い場所に居続けるのは不幸だと思ったから助けようとしただけ。
しかし、結果的に不幸にしてしまった。
この問題は、
幸せかどうかを決めるのは誰なのか。
ということを考えさせられる。
例えば、今ある安定した環境を壊してまで夢を追いかけようとする人がいたとする。
周りの人は止めるだろう。無理だ、やめたほうがいい、と。
しかし、夢を追いかけるかどうかは人生を左右するほど大きなものだ。そんな大きな決断を、どうして他人が決めようとするのだろう。
私には "将来の夢" というものがないが、仮にあった場合、すべてを擲ってでも叶えようとするだろう。周りに何を言われようがそれは変わらない。
人に言われて諦めるような夢なんかあってないようなものだし、そんな夢叶うはずがないのだが、周りに応援してもらわないと叶わない夢もある。
周りの人からすると、その人のためを思って引き止めているつもりだろう。しかし、本当にその人を想うのであれば、引き止めるべきではないのかもしれない。
少なくとも私は引き止めてほしくない。
結果的に不幸にしてしまった。
と書いたが、クモが "死" を不幸だと思っているかどうかはわからない。あくまで人間の想像である。
果たして、"人の気持ちを考える" ことはいいことなのだろうか。
"人の気持ちを考える" なんてかっこつけても、結局のところはエゴを押しつけていることに変わりないのではないだろうか。
また、この記事も私のエゴでしかないのではないか。
考え始めると終わらない。
日報排便者 D-genius